本題について、性別違和の当事者として一度スッキリとまとめておくと良いか、 と思っていてやってなかったので、今回はその手の話をします。
今回の記事は私が知っていること、私の見解をベースに書いているので、 「あれ、何かここは違うぞ?」と感じたら、複数の当事者へ話を聞いてみてください。
なお性別違和やトランスジェンダーの当事者について知り合いなんていねぇよ!という方は、 全国各地で当事者会が開催されているので、そこへ足を運んでみると良いかと思います。
※ただし不躾に振る舞うと出禁になることもあり得るので、礼儀と尊重は忘れないように。
- もし脳髄だけの存在にされた時、あなたは自身を「男/女」のどちらと認識しますか?
- 「性別違和」って何?
- 「性別不合」とか「性同一性障害(GID)」って何?
- 「トランスジェンダー」って結局何?
- トランスジェンダーと性分化疾患って「直接の」関連はある?
- 「トランス女性」は「女性」か? / 「トランス男性」は「男性」か?
- いわゆる「トイレ・風呂問題」についてどう考えるか
- おわりに
もし脳髄だけの存在にされた時、あなたは自身を「男/女」のどちらと認識しますか?
という問いへの答えが、あなたの「性同一性・性自認」となります。
話を分かりやすくするためジェンダーを二つだけに絞りますが、 つまるところ自分が未知の存在によって脳みそプカプカで生かされる状態に陥った時、 「男」として助けを求めるのか、それとも「女」として助けを求めるのか。
その答えが「性同一性・性自認」と呼ばれるものの正体です。
またもうちょっとややこしく書くと、「性同一性」とは私たちの精神活動における主体である「自我」が、 「私は男性であるか、女性であるか、それ以外か」と「自動的に自己認識」する性別を指す、と私は考えています。
が、そんなものは定義をややこしくしているだけの話なので、自分が脳みそプカプカにされてしまった時、 それでもなお「自分は男/女だ!タスケテ……タスケテ……」と言う状態で自己認識する性別。 それが「性同一性」だと考えてもらっても問題ないと思います。
補足として、「性同一性」は「性自認」と呼ばれる事もありますが、実態としては「自認」ではなく、 「自動的な自己認識」であるため、「性自認」と言われても、自分で変えられるものではありません。
またジェンダーフルイドと呼ばれる性同一性が一意に定まらない方も居ますが、 これも自身で性同一性をコントロールしているとは聞かないですし、 イメージとしては振り子がゆらゆらと揺れ動いている状況と話が近いのだと思います。
「性別違和」って何?
性別違和の話をするために、さっきの「脳みそプカプカ」の例えを再利用します。
さて「脳みそプカプカ」の状態から身体が再生され(未知の技術!)、脳プカの状態からは助かることとなりました。
しかしこの時、
- 「自分は男だ!」と認識している脳プカが女性の体に埋め込まれる
- 「自分は女だ!」と認識している脳プカが男性の体に埋め込まれる
という問題が起きます。そしてこの状態は不可逆で、元に戻す事は出来ません。
こうなってしまうとシリアスな展開では悲劇ですが、その悲劇の起きた人の周りはそんなことを意に返さず、
お前は「男/女」として再生された。だからそのまま「男/女」のままで寿命を迎えろ
という扱いを受けます。
この時、
私は本当は「男/女」なんだ!なんで体の性別が正反対なんだ!なんでだよ……
と言う状況になる、と言われたらある程度の納得が行く話だと思います。そしてこれが「性別違和」を持つ人の実感と感情です。
つまり「自分は男だ」or「自分は女だ」という自己認識があるにも関わらず、その正反対の性別の体を持ってしまっている、 という実感の事を、当事者や周囲の支援者(ドクターを含む)は「性別違和」と呼んでいる、ということになります。
※ただし実際にはもう少し複雑なのですが、ここではあえて分かりやすい例えにしています。
また性別違和を自覚するタイミングは人それぞれで、中核群と呼ばれる層は上記の状態を幼少期からハッキリと訴えている方も多い印象ですし、 私の様に性別違和へ気がつく事が遅かった周辺群と呼ばれる人達もいますが、この辺りは人それぞれで、誰しも同じ違和感を抱えている、とは言い切れません。
とは言え、「性別違和」と言う状況・主訴については、
自分が「男/女」だと言う自己認識があるにも関わらず、逆の身体に放り込まれている
と言う実感と近しいので、先程の例えはその理解の助けになると思います。
「性別不合」とか「性同一性障害(GID)」って何?
これは単純に医学的な診断名です。
先に触れた「性別違和」がある、と訴える人が確かにそれらしい状態にあると判断された時、 医学的に支援するためのラベリングとして「性別不合」という診断が付けられる、という話です。
また性同一性障害(Gender Identity Disorder・GID)と性別不合という用語は実質的に同じ状態を指し、 ある時、これに対する扱いが、
「これは病である」
という識別から、
「これは病ではない。しかし医学の助けは必要である」
という形へ変更されました。その際名称も改訂され、性同一性障害は性別不合と呼ばれることとなります(この出来事は脱病理化と呼ばれています)。
ただし、この出来事については近年行われた事であるため、今でも性同一性に絡む話では「性同一性障害・GID」と言う用語を使うこともありますし、 脱病理化を尊重する方などは「性別不合」と呼ぶことがある、と覚えておけば良いと思います。
「トランスジェンダー」って結局何?
「トランスジェンダー」とは、私の理解では産まれもった性別とは別の在り方で日々の生活する人々の事を指します。 例えば男児として出生したなら女性として、女児として出生したなら男性として生活する、と言った様な在り方です。
そして「トランスジェンダー」である事と「性別違和」があること、「性別不合」の診断が下っている事は、直結することではありません。
これはどう言うことかというと、例えば私は男児として出生し、今となっては「性別違和」を抱えながら生活していますが、 現状では「男性」として生活しておりトランスジェンダーではありません。
また明確な性別違和を持っているとは聞いたことはないけれども、生活の在り方として「トランスジェンダーのおじさん」であること公開している漫画家の方も居たりします。
そのためトランスジェンダーだからと言って性別違和があるとは限らないし、 逆に性別違和があるからと言って皆がトランスジェンダーとして生活しているという訳ではない、 という辺りが実状となります。
ただし、性別違和を抱える方が自身の性同一性と日常生活を一致させるために「トランスジェンダー」という状態を経由することはままあり、 これを「性別移行」と呼びます。そして「性別移行」の最終段階に行うこともある手術が「性別再割り当て手術(Sex Reassignment Surgery・SRS)」です。
補足として、これは私個人の感覚の話ではあるのですが、「性別違和」を抱える人にとって「トランスジェンダーという状態を採る」と言う事は、 あくまで「手段」であって、それ自体をアイデンティティにすることに対しては、若干の違和感を覚えています。
トランスジェンダーと性分化疾患って「直接の」関連はある?
ないです。
この辺り、私も知識がなく反省することしきりなのですが、 少なくともトランスジェンダーであることと、性分化疾患という「身体的な」疾患自体はほぼ関係がありません。
私が理解している限りでは、性分化疾患はあくまで「身体疾患」の話であって、 トランスジェンダーという生活の在り方の話は原則として関係しないという認識です。
そのためそれらの疾患を抱える方のジェンダーは社会一般のジェンダーと変らず、定型のジェンダーは「男性」か「女性」のいずれかですし、 中には「ノンバイナリー」である方や「トランスジェンダー」である方も居る、という認識で良いと考えています。
ただし「性別不合」の診断において、性別違和の原因が実は性分化疾患だったという可能性を排除する「除外診断」のために、 性別違和の主訴を持つ方の遺伝子検査をする、と言う事は普通に行なわれています。
また「性に関連する話」としてトランスジェンダーの話に引き摺り込まれる形で「性分化疾患」に言及される事もあり、 これによって該当疾患の当事者が大迷惑を被る、という状況が今のインターネット(特にSNS)では存在するので、 その点は明確に自覚する必要があると思っています。
正直なところこれ以上は私も詳しくないので踏み込んだ話は出来ませんが、要点として、
- 性分化疾患は「身体的な」疾患の話である
- 性分化疾患とトランスジェンダーである事に直接の関連性はない
- ただし性別不合の診断のために性分化疾患ではないことを確認する検査はある
と言う事を押さえておくと、無用な混乱は避けられると思います。
「トランス女性」は「女性」か? / 「トランス男性」は「男性」か?
これについては、よく邪悪なインターネットで消炭すら相互憎悪で燃やされている話題なのであまり触れたくないのですが、 性同一性の話をするに当たって触れない訳にも行かないので、一応触れておきます。
私個人の感覚としては、
- 女性のように振る舞い女性のように行動し女性のように見えるなら「女性」
- 男性のように振る舞い男性のように行動し男性のように見えるなら「男性」
という区分しかないのではないか?と感じています。
そもそも社会一般の生活において、パッと見で「男性のように見える」/「女性のように見える」からと言って、 それをいちいち確かめる、と言った事は、特段の必然性が無い限り行いません。
また日常生活でたまに性別を間違えられる人がいる、という光景を見かけたこともありますが、 これも「男性のように見える」/「女性のように見える」と言う見た目の話であって、 内実、トランスジェンダーか否か、と言った事が問われることはないはずです。
つまり「トランス女性は女性であるか?」や「トランス男性は男性であるか?」と言った問いは意味がなく、 日常生活において「見た目と振る舞い」によって人々は「男性/女性」の振り分けが行なわれ、 それが「トランスジェンダーか否か」はほぼ関係しないのでは?と私は考えています。
いわゆる「トイレ・風呂問題」についてどう考えるか
これについて私自身は、
合理的理由があり、こちらからトラブルを起さないのであれば、別に特段の調整は必要ない
と考えています。
例えばトイレについてですが、トランスジェンダーの方がトイレで用を済ませる場合、 振る舞いとして問題が起きないのであれば、見た目に適合するトイレを使えば良い、 としか言いようがありません。
むしろトランスジェンダーという状態で生活しており、外見上の性別と実際の性別が一致しない。 その上で見た目とは異なる出生時の性別のトイレを使う。当然、そんなことをしてしまえば、却ってそちらの方がトラブルになります。
特に性別移行手術(SRS)を受ける前提でトランスジェンダーという状態を取っているのであれば、 手術を受けた後でも移行先のトイレを使えない、となると、そちらの方がよほど問題です。
また、この手の話題では移行先の性別としての経験を社会で積もうとするな
と言った主張をする方がいますが、
これは車椅子が必須な人に対し車椅子での移動経験を社会で積もうとするな
などと言っているに等しく、
お前たちは二度と社会に出てくるな
と言っているに過ぎません。
そして、そう言ったお前たちは永遠に社会へ出てくるな
とのたまう人は、
それを言った相手の人生に対し責任を取るつもりなぞなく、
単に誰かを排除して溜飲を下げたいだけだ、と私は考えています。
なおその他の場合、例えば更衣室で全裸になるであるとか、病院などの診察で出生時の性別が問われる場面であるとか、 スポーツ競技への参加であるとか、そう言った場合には無用なトラブルを避けるために事前の調整が必要だと思います。
これはハンチバックで著名となった市川沙央先生が言うところの「合理的調整」の話です。 誰かに無理強いをして互いに不幸となるのではなく、互いに利害調整をして出来る限りの包摂を可能にする。 それが現実社会を回して行く上で本当に必要なことだと私は思います。
おわりに
気軽に書き始めたつもりが、思っていた以上に大作となってしまいました。
性同一性や性別違和、あるいはトランスジェンダーについて、 出来る限り分かりやすく噛み砕いて説明することを心掛けていましたが、いかがでしたでしょうか。
正直なところ、私もすべてがすべてに精通している訳ではありません。
例えば私は性別違和を抱えてはいますが「トランスジェンダー」という状態への経験が無いため、 トランスジェンダーをやっていく上での苦労や困難については想像が及びませんし、 その事によって正確性・現実性を欠く事を述べている可能性もあります。
ただそれは誰もが抱える自身の想像力の限界、経験の有無の話なのであって、 それにとやかく言っても仕方がないし、それこそそこへ突っ込んだ話を聞きたいなら当事者会へ参加し、 非礼の無い範囲で当事者へ直接質問してみる、と言った方法論を取る方がよほど建設的でしょう。
特に昨今のSNSではトランスジェンダーをすべて排除すれば万事が解決する
と言った様な考えに染まっている方が残念ながら居ます。
しかし現実として「誰かの排除」だけでその問題が解決する、とはそうそう簡単に言えません。
例えば施設の安全確保のためにトランスジェンダーを排除せよ、と社会へ問う声がありますが、 施設に対し安全確保を要求する相手は、その施設を管理・運営する管理者であるはずです。
そのため、本来であればここへ「トランスジェンダーが利用する事への可否」は介在する余地はなく、 インターネットで紛糾したところで、現実の施設運営が改まることはありません。
現実として、施設の安全を脅かす「不審者」の出没する場所があるのなら、トランスジェンダーか否かを問わず「挙動不審な人物」の利用はすべて拒むべきです。
この話において「排除される挙動不審な人物」を「トランスジェンダー」だけに限定する合理的な謂れはない。私はそう考えます。
またこの手の話では何故か「安全性が疑問視される」施設の運営・管理者がかやの外に置かれている印象があります。
しかし繰り返しますが、施設の運営・管理者に安全対策を取らせない限り、その施設での安全は確保されません。 正直なところ、私はその点を誰もが見落しているのではないか。そう感じています。
トランスジェンダーか否かを問わず、社会の合理的調整や安全の確保を行うために必要な事は、誰かを排除せよ!と紛糾することではなく、 現実の関係者を巻き込んで妥当な対応を取らせること。
万事において、私はそう考えます。