個人的にそう言った考えへと至ったのでメモっておきます。
どういうこと?
これはどう言うもこう言うもなく、ただ単純に我々が、
彼らの考えは○○イデオロギーだ!
と言うとき、これは単に、
奴らの考えは頭がおかしい!そして我々の考えこそが正しいんだ!
と言っているだけなのでは?という話です。
そもそもの話として、この世の哲学・物事の考え方において「イデオロギー」とならないものは存在しません。
例えば日常的な挨拶をする、と言う行ないでさえ、これを政治的に強制し美化するような風潮が生まれたのならば「挨拶イデオロギー」と呼ばれ得るし、 それを当然視する政治的集団が現れたのなら、その集団は「『挨拶イデオロギー』を推し進めようとしている」と言われるでしょう。
今、日本で「挨拶を政治的に強制し美化する」という政治的理念があるのなら、一般的には「さすがにそれは言っていることがおかしい」と判断しますし、 このように判断することは、暗黙のうちに「それを否定する我々の方こそ正しい」と考えている事実を孕みます。
そしてこの例え話の対象、つまり「イデオロギー」の元となる物事の考え方は、別に「挨拶」に限った話ではありませんから、結局のところ、
彼らの考えは○○イデオロギーだ!
と私たちが言うとき、
奴らの考えは頭がおかしい、アレを否定する我々の方が正しい!
と言ってるに過ぎない、という事になります。
イデオロギー(いでおろぎー)とは? 意味や使い方 - コトバンク
どうしてこう言う考え方に至ったか
おおよそこの三点を基点に考えたことが理由です:
- 自身の考えに「それはイデオロギーだ」と言われると不快感があるのは何故か
- 自身が否定したい考えを「イデオロギーだ」と呼ばれることへ抵抗感が無いのは何故か
- そもそも「イデオロギー」という単語の成立ち、使われ方はどうなっているのか
今回はこの三つを詰めていった結果、こう言った物事の捉え方となりました。
つまり自分たちの考え方を「イデオロギー呼ばわりされる」ことへ不快感・抵抗感を覚える、という事は、「お前たちは頭がおかしい」と暗に言われることへの反感に根付くもの。
自身が否定したい考え方を「イデオロギー呼ばわりされる」ことへ肯定感や爽快感を覚えてしまうのは、「あいつらの考えは頭がおかしく、自分たちの考えこそ正しい」と思いたいからなのではないか。
……と、そう考えた訳ですね。
そしてそれはつまるところ、私たちは何かの政治的対立において相手の考えを「○○イデオロギーだ」と言うとき、 それは単に「自分たちこそ正しい、あいつらの考えは頭がおかしい」という自己正当化を耳障りよく言い換えただけに過ぎないのではないか。
そう感じ取ったのが今回の話です。
以上
なお注意点として、今回の物事の捉え方は「イデオロギー」と呼ばれた事柄に対し、一切の可否を含まないと断っておきます。
今回の話は「相手の考えをイデオロギー呼ばわりする」ことは「相手の考え方は頭がおかしい、 自分たちの考え方こそ正しい!」と言う事を綺麗に言い換えただけに過ぎない、 という指摘であって、それが善であるか悪であるかの価値判断を挟んでいません。
そのため、ある「イデオロギー呼ばわり」された観念が本当に社会へ害悪を成す考え方なのか、 あるいは逆に本来なら社会にとって必要な視点ではなかったのか、については一切判断していない、ということです。
ある観念を「○○イデオロギー」と呼ぶとき、それが妥当であるか否かは、 前提となる文脈、それに伴う社会的状況、もしくは当事者となる人々の現状。 そういった諸々を鑑みて判断することが必要となります。
またその可否を考える個々の立場や、今まで体験してきたこと。 そういった諸々を含めてどの立場を取るか、までを含めて「どのような観念に賛同するか」が決まるので、 もし十把一絡げに「これは○○イデオロギーだ」と安易に指摘するのであれば、それは雑な判断に過ぎません。
そのため、そう言った背景や文脈も含めて、
私は自分とは異なる意見をイデオロギー呼ばわりしているだけなのではないか
と考えることが有益だと。私はそう考えます。
あと最後に。
今回の話を使ってマウントを取り合うのは愚者の行動なので、そう言った事は止めましょうね。